伊勢から奈良かい?

  • 2010/05/11(火) 18:50:50


また くんだら 続けます。

調べていてハッキリ解ったのが「白鳳文化」・・・・

「夢のあれこれ 2010/05/10(月) 11:24:44」で書いた天井に白鳩を従えてぶら下がっていた朱雀は、天武天皇と持統天皇が過ごした「飛鳥浄御原宮」と、その時代「朱鳥時代」(わずか数年?)を指していたものと思われます。
(詳しくはwikiで)

「朱雀」とは、「朱鳥」美化した敬称だそうですね。

それでだろうか、天井にぶら下がっていたわけのわからないけったいな風体の朱雀はすぐに姿を消し、ハトにしては大きすぎる白鳩がトコトコ歩きながら私の側に来たのだろう。・・・と判断しました。

その朱鳥時代にわずか1年で天武天皇は崩御 (朱鳥元年9月9日(686年10月1日))され、「朱鳥」の元号も廃止され、しばらく元号の無い時代が続き、次の「大宝時代」へと続きます。続いたのは持統天皇。ここで有名なのが「大宝律令」

天武天皇の命により、律令の原案は構想されていたのですが、制定されたのが彼の死後で、701年に完成。日本初の律令となりますやろか?

そして都は藤原京に遷都され、華開いたのが「白鳳文化」・・・・

しかし、ここでwikiから抜粋。(補足)

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万葉集、日本霊異記などには、朱鳥4年、6年、7年、8年などが見え、天武天皇の代の文献には、朱鳥と朱雀の二つの年号が見え、「古事類苑」は、「按ずるに、続日本紀に、白鳳以来朱雀以前とあれば、朱雀は白鳳より後なること著し、蓋し諸書に朱雀の改元をば、或は天武天皇の壬申とし、或は癸酉とし、或は甲申として区々なれど、其天武天皇の朝の改元なること皆同じ、熱田縁起に天渟中原瀛真人天皇朱雀元年丙戌とあるに拠れば、朱雀は朱鳥の一名にして、天武天皇の十五年丙戌の改元なるべし、そは改元の種子となりし朱鳥は即ち赤雀なりしかば、当時朱鳥とも朱雀とも通はして云ひしならん、然るに上に挙げたる書どもには、朱鳥の号を赤雉に由れりとし、朱雀を赤雀、又は三足の赤雀に由れりとして分ちたり、されど赤雉を瑞祥とせしこと、国史及び延喜治部式の祥瑞の下に見えず、頗る疑ふべし、されば朱雀即ち朱鳥にて、再び改元ありしにはあらざるべし、また按ずるに、日本書紀に拠れば、朱鳥は一年にて終りたれど、万葉集には朱鳥四年庚寅、六年壬辰、七年癸巳、八年甲子あり、蓋し庚寅は己丑の誤、壬辰は辛卯の誤、癸巳は壬辰の誤り、甲子は癸己の誤にして、霊異記に朱鳥七年壬辰とあるを正しとすべし」という。

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「朱鳥時代は1年を以て絶えたんじゃねーよ、七年は続いたんだバカヤロ」
と、こう主張しているのですね。それを維持したのは天武天皇と持統天皇。

これを機に後の藤原京の白鳳文化が栄えたということですね。白鳳凰。(たぶん)何か白鳩と通じますね。



どうです? 何となく繋がったと思いませんか?(私の夢見に限定ですけども・・・あい、すみません(ぺこり!)

つまり、何かが、国の国体に関する何かがあったのかも知れませんし、ただ、ダラダラと日本の過去を見せられているだけかも知れませんので、あしからず。


つまり、こう言いたいんだなと思う。

上賀茂神社はもういいから、奈良へ行け!三輪山辺りだよん!!!

w ヲイヲイ…

確かに・・・三輪山辺りはとても気になっているところには違いないのですが。



と、歴史の表向きを書いたわけですが、この天武天皇、伊勢神宮との関係も深かったようですね。伊勢の祭祀を重視し、国家事業として行い、新嘗祭と大嘗祭の区別などがされ、現在にまで継承されているとあるね。仏教においても同じように政策を強化したとある。驚くのは、天皇自身が占星術や陰陽道に長けていて、陰陽道を正統に認め、「陰陽寮」を制定したと書いてある・・・・

股出た・・・もとい!また出た陰陽師。しゃーないわな、この当時の科学者であり医者であり神職であったんだから・・・

今日はここまで! ノシ


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