六角堂と梛・隼神社だぎゃ!・その2

  • 2015/04/11(土) 22:14:52


詳しく見て見ますと夢見ではこんな内容だったんですね。(忘れとったわ!)

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2011/2/20

~ビジョン?~

「京都 真ん中」 (声?)

バスから降りて京都真ん中の風景を見る

辺りは田圃? 遠くにが見え、その前に4つの縦に細長い家の集合

田圃の中に小さな祠がふたつ  

角隠し・白無垢の花嫁さんがお参りしている

私も後についてお参りしようと待っている

犬? 犬神? 小さな小さな祠はふたつ


    (意識消滅)

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note_201504112146529c3.jpg

(ついでに夢日記のバサバサと書いた絵を載せときます)
(汚い字はカンニンな!殴り書きしますからね)
「京都 真ん中 ここに来い」と強く感じていたのですが・・・)



で、



梛・隼神社 



梛神社社伝
“社伝では、貞観11年(876年)に京での疫病流行により播磨国広峰(広峰神社)から牛頭天王(素戔嗚尊)を勧請して鎮疫祭を行った際、牛頭天王の分霊をのせた神輿を梛の林中に置いて祀ったのが創祀という[1]。
その後、牛頭天王の神霊を八坂に祀って祇園社(八坂神社)を創建する際、梛の住民が花飾りの風流傘を立て、鉾を振って楽を奏しながら神輿を八坂に送ったといい、これが祇園会の起源であるとしている[1]。また、このことから当社は「元祇園社」と呼ばれるという[1]。
明治までは小祠であったが、明治7年(1874年)と昭和4年(1929年)の復興により現在の形が整えられたという[1]。”


主祭神・素戔嗚尊
配祀神:次の3柱のほか数柱。
宇賀御魂命
伊弉冉命
誉田別尊




隼神社概要
“創建は不詳。
国史では『日本三代実録』において、貞観2年(860年)から貞観16年(874年)に渡り、「後院隼神」として無位から従四位上まで神階が授けられた旨の記載がある[2]。また、延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では「京中坐神三座 並大」のうちに「左京四条坐神一座 月次新嘗 隼神社」として、式内大社に列するとともに月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている[2]。
『三代実録』当時に四条に所在した後院は朱雀院(右京三条から四条)であることから、当社は朱雀院の院内に祀られた神社であったと見られている[2]。朱雀院の復元研究においても院の南西角に鎮守として石神明神・隼社があったことが明らかとなっており、当時の隼社の位置は四条大路と皇嘉門大路交点の北東角、すなわち現在の中京区壬生花井町の南西部分と推定されている[2](位置)。その後、『延喜式』編纂時までには左京四条坊内坊城小路に移されたと見られ、以後同地で推移したとされる(位置)。“


主祭神・建甕槌神 (たけみかづちのかみ)
配祀神・経津主神 (ふつぬしのかみ)





ほらね、建甕槌神様経津主神様がいらっしゃる。霊明神社と同じですね。



ちなみに宮中・京中の式内社を見て見ますと・・・


宮中・京中の式内社一覧 


隼神社は「京中」の末席にて記録されております。大変有難い神社であったということがわかりますね。元々は朱雀院の中で祀られていたそうです。内裏ですね。


「京都 真ん中」の意味は「京中」だったのでしょう。



さて、霊明神社ではククリヒメ様はあの世界でのイザナミ様の御名前やとお伺いしてびっくりしたのですが、六角堂へ行けと言われた理由がわかりました。

六角堂聖徳太子様とご縁が深い場所です。御存知のように聖徳太子様は仏教の発展に力を入れておりました。Wikiから六角堂の創建伝承から拾ってみます。


“敏達天皇の時代、淡路国岩屋浦に閻浮檀金(えんぶだんごん、黄金の意)の如意輪観音像が漂着した。この像は、聖徳太子が前世に唐土にあって仏道修行していた時に信仰していた像であり、太子はこの観音像を念持仏とした。これが後の頂法寺本尊である。太子は16歳のとき、排仏派の物部守屋討伐にあたって、護持仏に「無事討伐できたならば、仏の功徳に感謝して四天王寺を建立いたします」と戦勝祈願したところ勝利した。そして、寺建立のための用材を求め、小野妹子とともにこの地を訪れた。その際、太子は池で水浴をするため、傍らの木の枝の間に持仏の如意輪観音像を置いておいたところ、像は重くなり動かなくなってしまった。観音像は光明を発し、自分は七生にわたって太子を守護してきたが、今後はこの地にとどまり衆生を済度したいと告げた。そこで太子は、四神相応のこの地に伽藍を建てることとした。東からやってきた老翁(鎮守神の唐崎明神)が、紫雲たなびく杉の霊木のありかを教えてくれたので、その材を用いて六角形の堂を建立したのがこの寺の始まりである。”



え~と、コメント欄に書いたような気がしますが「金色のドレスを纏った女性」がチラリと見えたのはおそらく「閻浮檀金(えんぶだんごん、黄金の意)の如意輪観音像」の化身だったのでしょう(たぶんですが・・・)(NMさんとはメールでお話してありますが)
次に参拝するルートを察して(というか案内に来られた?)御出現されたような気がしてなりません。
(NMさん御免!千手観音様ではなく如意輪観世音様だった~よ!)



仏教の元なんですよね、聖徳太子は。
霊明神社はふりの神社であると書いてます。イザナミ様はククリヒメ様で、だからはふりの元の神社でお祀りしていると神主様は仰いました。


イザナミ様あの世の元締め、名誉会長のようなものです。



ここで気が付きました。



仏教式葬式の元と神道式葬式の元・・・・神道の元へ行けば仏教の元もそうやないか?行かなあきまへんよ・・・



ああ、そいうことだったのか!と。やはりイザナミ様や~!と。


今まで社長さんや真っ白の男だか女だかわからない方々など、一生懸命教えて下さっていた方々が「ククリヒメ!」の声を残して一斉に御出座しにならなくなったのはそういうことだったんでしょう。
あの世の総元締め、名誉会長が御出座しになられれば平社員は出て来られません。当たり前です。格が違い過ぎます。怖すぎです。ビビります。10mくらい穴掘って、その中から土下座しても足りないくらい怖いです。当然です。この世全ての「元」を創造されたお母様なのですから。


イザナミ様はあの世に向かわれるまで神々様のお母様でした。そして初めて亡くなられた神様でした。
だからでしょう、あの世のこれから生まれ来る子供達(天使達)の面倒を見て下さり、現世の人々に「あの世からの声を聞きなさい」と彼等と橋渡しをして下さった。
まだ社長さんやあの方々が出て来られないところを見ると・・・イザナミ様はまだおられるのでしょうね。いや、この世が落ち着くまでずっと見ておられますよ。



やっと謎が解けました。やはり六角堂、梛・隼神社へ参らなければなりません。


はて、イザナギ様はどうなさっておられるのでしょうね?梛神社ではイザナギ様をお祀りされておられるようですが・・・



イザナギイザナミ様が再び合体する時が世の再生なのかも知れませんね。



敷島(しきしま)の大和(やまと)の国は
言霊(ことだま)の助くる国ぞ ま幸(さき)くありこそ

(長歌)葦原(あしはら)の瑞穂(みづほ)の国は
神(かむ)ながら 言挙(ことあ)げせぬ国

しかれども 言挙(ことあ)げぞする
言幸(さき)く ま幸(さき)くませと

つつみなく 幸(さき)くいまさば
荒磯浪(ありそなみ) ありても見むと

百重浪(ももえなみ) 千重浪(ちえなみ) にしき
言挙(ことあ)げす我(あれ)は 言挙(ことあ)げす我(あれ)は




先のパラオご訪問天皇陛下、皇后陛下がご宿泊された巡視船はあきつしま「秋津島」



日本の正式名称


「大八州」「敷島」「秋津島」「神国」「神州」「皇国」「扶桑」「大和」「豊葦原瑞穂国」「中津国」「言霊の幸ふ国」「蓬莱」「和州」「日出処」「皇神(すめかみ)の嚴くしき国」「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国」「師木島」「磯輪上秀真国」「東海姫氏国」「玉垣内国」「豊葦原千五百秋瑞穂国」「東海女国」・・・・


パラオの英霊の皆様は天皇皇后両陛下のお迎えにより帰還致します。良かったですね。




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この記事に対するコメント

あわじしまより

coomiさん、ご無沙汰しています。毎日ブログ拝見していました。ありがとうございます。
実は今日、夜が明けたら京都へ参ります。
若い頃京都にご縁がありまして、その当時の方からのお誘いです。

それはそうと、下記のブログにコメントさせていただこうか、と迷っていたのですが、こちらにさせていただきますね。シンクロしているようなのです。

淡路島の岩屋に聖徳大師様ゆかりの如意輪観音様が流れ着いたという記事を拝見しましたので、淡路島在住の者として聞いていただけますか?
よろしくお願いいたします。

実は1月、私も京都の護国神社にお参りせねば、という思いにかられていたのです。がひょんなことから東京行きのチケットが手に入り、靖国神社の方に参拝することにしました。17年ぶり2回目
です。
今年の護国寺の方が元だったということがcoomiさんの記事で納得できました。ありがとうございます。こちらへはまだおまいりしたことはないのですが今回もパスしようと思います。なぜか気が重いです。それはともかく、
幕末の志士。この淡路島にご縁があるのです。なんとうちの村の最後の庄屋さんなんです。ゆえあって血縁関係はないのですが主人の祖父の祖父がその庄屋さんの手代であったこともあって分家の栄誉にあずかっているのです。
その本家にあたる家屋は今はなく、公園のようになって戦前に建造された石碑がのこされています。
今まで地元でもあまり語られてこなかったのですが、新聞などにとりあげられて、ようやく日の目をみるようになってきたところです。
ネットで調べると護国神社の名簿にあがっていました。

それから、坂本龍馬関係について。
淡路島の岩屋に嫁いだ主人の姉のこと、もうすぐ亡くなって7年になるのですが、本籍が神戸の○○町というところです。
ご先祖さんが紀州の御用商人とかで神戸に土地をもっていて、くわしいことはわかりませんが、そこを神戸市に寄付したそうで、
その式典には遠縁にあたる主人の姉家族も呼ばれて記念写真があるそうです。
そのご先祖さんの本家筋も今はないのですが、義兄から主人が昨年聞いた話によると、幕末にそういう志士の方々との交友があったらしく、彼らからの書状がたくさん発見されたそうです。その中には「坂本龍馬からのものもあった」ということだが、これも全部高知県に寄付したんだそうです。ああ、もったいない・・・とは主人のため息。どうも失礼しました。

京都、六角堂へはかの掲示板でお世話になっている時お参りさせていただきました。六角堂とか奈良夢殿の八角堂の形は建物を円に似せるためのくふうらしいですね。私のご縁のある親鸞さまも六角堂に籠りました。ピラミッドのはたらきと同じ宇宙と一体になれる効果があると、どこかでききました。・・・・

長々どうもすみません。申しわけありません。コメント欄の皆様も参考にさせていただきながら過ごさせていただいています。

coomiさん、お身体お大事に、これからもどうぞよろしくお願いいたします。
どうもありがとうございました。

  • 投稿者: しま
  • 2015/04/12(日) 05:00:51
  • [編集]

すみません。話が膨らみました(^^ゞ

あくまでも仮説ですのでと前書きをしておいて。
聖徳太子の祖母にあたる「小姉」と言われる女性は蘇我氏が丹後から養女として「巫女」をむかえ、天皇家に嫁にやりました。神道が主流であった時代でしたので、奥方が「巫女」は大変重宝された時代だったそうです。蘇我家は実権を握りたかったんですね。天皇家の信用を得ようとしたのかもしれません。
そうして穴穂部間人皇后が生まれて太子が誕生します。
穴穂部と言う名前は土地から来るのだろうと言う説を取ると、実は物部の土地に位置します。間人皇后はこの地で太子を御産みになられた。
そう言う事から間人皇后は物部の血が流れているのではないかと言う仮説が立ちました。
つまり、おばあさまもお母様も神道だった可能性が大で、太子は勢力を伸ばす蘇我の手前、或いは蘇我の一族として名義上いる立場であったのと、荒れる世を治める為に「仏教」を悪い言葉で言えば「利用」したのではないかとも言われています。
四天王寺には周辺を7つの神社で守護させています。
代々の天皇さまの御霊を柱にし、天照様とスサノウ様を柱にされています。
彼は最初から「神仏融合」を願っていたようです。

そうして、ご存じのように「お役御免」或いは「目ざわりになった」太子一族を蘇我氏は滅ぼしてしまった訳です。

  • 投稿者: garu
  • 2015/04/13(月) 21:38:15
  • [編集]

書き忘れですすみません

つまり、太子に関係のあるお寺には何処かに日本の神様がいらっしゃると言う事です。
御社があったり、書かれておられるように、仏像と神様が融合なされていると言う事です。

  • 投稿者: garu
  • 2015/04/13(月) 21:46:34
  • [編集]

Re: 書き忘れですすみません

こんにちは、garuさん^^/
お返事遅くなりました。すっみません。
神仏習合はここでも何度か書きましたけど、なかなか複雑で(笑)日本人は有史以来神仏を大切にして来ましたけれど紆余曲折あったのは間違いないと思います。
ただ、神々様であろうが仏様方々であろうが根底は同じだと思います。人々の護りであり救いであり拠り所であったのは間違いないと思われます。日本国土、ご近所歩いても大袈裟にいえば数歩歩いたら何某かの神社や寺に出会うというのが正にソレ。何かにつけて日本人は崇拝し続けて来たのですね。
メンドクサイから合体させてまえ!というのはどうかとも思いますが、合体しても神仏は何とも思われないような気が・・・そんなセコイ性格ではないよと。
私の夢に御出現された方々の中で、いちばんに身を引かれたのが仏様でした。衆生への慈愛、正に慈愛だったと思います。しかし日本の神々様は違います。性格が違う。
厳しさと優しさ、怒りと喜びがハッキリしておられますね。ここが神仏習合との分かれ目になったのではないでしょうか?神仏分離ですね。

何にせよ、太子が神様を大切に扱われておられたことが分かって良かった。
記憶違いでなければ安倍文殊院でも六角堂に神様がおられたような・・・

  • 投稿者: coomi
  • 2015/04/15(水) 09:53:12
  • [編集]

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