神話ではなくそこにあるもの その2

  • 2011/12/05(月) 11:21:19


(続き)

色々な島々の山や有名どころを写真で確認してはこれは違う、あれも違うとさんざん探してやっと見つけました。

ギリシャのメテオラ。

メテオラ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%A9

そう、こんな断崖絶壁の山でした。もし日本の「あのお山」でなければここだという気がします。世界遺産だったんですね。驚いた。
MeteoraMetaVarRosNiko.jpg wikiより


youtubeより「ギリシャ旅行 メテオラ修道院 観光」


このビデオの中に、私が見た山によく似た山(?)がありました。

メテオラの断崖絶壁の上にはいくつもの修道院が建てられています。

・大メテオロン修道院/「救世主の変容」を意味するメタモルフォシスの名前でも呼ばれ、1387年に建立された同名の主聖堂がある。
・ヴァルラアム修道院
・ルサヌ修道院
・聖ニコラオス・アナパフサス修道院
・聖ステファノス修道院
・アギア・トリアダ修道院



メテオラの険しい地形は、俗世との関わりを断ち祈りと瞑想に生きるキリスト教の修道士にとっては理想の環境と見なされ、9世紀には既にこの奇岩群に穿たれた洞穴や岩の裂け目に修道士が住み着いていた。この時代の修道士は現在のような修道院共同体を形成する事はなく、単独で修行する隠修士が主流であった。
メテオラに修道院共同体が成立したのは、14世紀、セルビア王国がセサリア地方に勢力を拡大してくる時代であるといわれる。それまで東ローマ帝国で修道院活動の中心を担っていたアトス山は1346年にはセルビア領の中に組み込まれた。セルビア王ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンはアソスの修道院に多大な保護を与えその活動を奨励したが、当時の戦乱を避けて多くの修道士がアソスを出て南下し、メテオラに住み着いた。その一人が修道士アサナシオスで、彼はメテオラに主の変容(メタモルフォシス)修道院を創立した。アサナシオスはアトスに於ける修道院共同体の様式、いわゆるキノヴィオン(共住)を導入して修道院共同体の確立に努めた。これらに前後して聖ニコラオス、聖ステファノスなどの修道院も創立されている。”



夢の中では修道院の姿は見せてもらえなかったのですが、それも当然ですね。
(私の指導者?はお話したり「これ!」とすぐに判る画像は見せませんから。
このように「己で探せ。わかるはずだ。そして自らが近づけ」ということなのです。)


ギリシャと言えばキリスト教コンスタンディヌーポリ総主教庁(コンスタンティノープル総主教庁)から独立したギリシャ正教

ギリシャ正教 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A3%E6%AD%A3%E6%95%99%E4%BC%9A

”19世紀初頭にギリシャ人の民族意識が高まると、1821年にオスマン帝国の意を受けたコンスタンディヌーポリ総主教の慰撫を振り切る形で現在のギリシャの地で民族蜂起が起こり、ギリシャは王国として1830年にオスマン帝国から独立を果たした。これにともない、新生ギリシャ王国内の正教会は、アテネ大主教を首座として、旧宗主国オスマン帝国の影響下にあるコンスタンディヌーポリ総主教からの教会独立を宣言、1850年に至って総主教の側から承認を受け、相互に独立を承認した教会の関係になった。ただし、ギリシャ正教会の首座主教は「総主教」ではなく「アテネ大主教」のままである。”


教義は同じであっても国家間の優劣によるジレンマで民族蜂起が起こり独立。
独立教会としての地位確立。・・・・


ここでハタと思い出したのが、突然現れた壁に車が激突し、目の前が真っ暗になってしまったこと。つまり拒否されたということ

おかしい・・・キリスト系の僕からのコンタクトも受け取っていたはずなのに何故拒否された?

メテオラの修道士の歴史・流れを読んで判りました。


”メテオラの険しい地形は、俗世との関わりを断ち祈りと瞑想に生きるキリスト教の修道士にとっては理想の環境と見なされ、9世紀には既にこの奇岩群に穿たれた洞穴や岩の裂け目に修道士が住み着いていた。この時代の修道士は現在のような修道院共同体を形成する事はなく、単独で修行する隠修士が主流であった。

(中略)

近代国家の中でも修道院活動は続いたが、近年は新たな問題が持ち上がってきた。メテオラの風光明媚な景色と修道院文化への関心からこの地域も観光地化が進み、世俗を避ける修道士にとっては活動に適さなくなりつつある。その為、メテオラを捨てより閉鎖的なアトス山に移住する修道士が増加している。争乱の時代にアソスを捨てた修道士によって建設されたメテオラ修道院共同体であるが、今度は近代化の波の中で逆の現象が生じたのである。なお、20世紀に入り、二つの修道院が女子修道院に改組されて現在に至っている。”


そら静かに瞑想したいのに観光客がギャーギャーと五月蠅かったら逃げ出したくもなりますわな。・・・


アトス山。・・・

アトス山 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%88%E3%82%B9%E5%B1%B1
Athos_13.jpg wikiより



「聖山の修道院による自治国家」として知られ、ギリシア共和国領内において正教会の修道院によって大幅な自治が行われており、いわば「宗教共和国」ともいえる存在となっている。”

アトス山はギリシャ人が「聖なる山」と呼ぶ聖域である。ハルキディキ半島の最も東の「足」にあたるこの半島は、標高2033mに達するアトス山と、そこから連なる峻険な稜線によって形成され、海岸はほとんどが崖か岩場から成り立っている。
かなり早くからキリスト教の修道僧が住み着いていたらしいが、文献にアトス山の記述が現れるのは9世紀以降のことである。伝承によれば、生神女マリアが旅の途中で嵐に遭ってアトスの海岸に避難したとき、その美しさに心惹かれ、自らの土地としたとされている。現在では20もの修道院を擁する東方正教の一大中心地であり、バチカンと同じく宗教中心地として自治を行っているが、アトス山はより厳格な瞑想と祈りの場であるため、バチカンのような経済的活動は行っていない。”


”1204年、第4回十字軍によってラテン帝国が成立したことにより、テッサロニキ王国に組み込まれたアトス半島は、ほとんどの修道院が荘園を没収されてしまった。東ローマ帝国が再興されるとこれらの荘園は返還されたが、ミカエル8世パレオロゴスが画策した1274年の東西教会の統一に反対したため迫害を受け、さらに1305年には、オスマン軍に対抗するためにアンドロニコス2世パレオロゴスが雇ったカタルーニャ、アラゴンの混成傭兵がトラキアからマケドニアを略奪し、修道院もこの標的となって荒廃した。また、14世紀中期には、オスマン軍の略奪行為もしばしば行われることがあったため、一部の修道士はアトスを離れ、他の地域に修道院を設立している。1356年に設立されたメテオラもそのひとつである。”

”(アトス山は)1406年以降、女人禁制となっているので、女性は入国できない。アトス山の居住は、18歳を過ぎた男性の正教徒のみが許可される。”

ここも世界遺産だったのか・・・

女人禁制の聖なる山だった・・・そりゃ拒否されるはずだ・・・



以上で

「書けない神域 2011/11/27(日) 08:53:23」
http://aoiroenpitu.blog98.fc2.com/blog-entry-1078.html

の夢解釈は終わりました。
もしあの日本のお山だったらどうしよう?(滝汗)



  • ジャンル:

この記事に対するトラックバック

この記事のトラックバックURL

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

この記事に対するコメント

コメント投稿

管理者にだけ表示を許可する