相川音頭は源義経

  • 2011/08/31(水) 23:28:36

相川音頭。新潟は佐渡。

相川音頭
― 源平軍談「義経弓流し」の段 ―
http://sado-aikawa.from.tv/sadookesakasi.html

先日上げたVを見ながら聞いてみて下さい。


”ドッと笑うて 立つ浪風の
荒き折節 義経公は
如何しつらん 弓取りおと落し
而も引潮 箭よりも早く

浪に揺られて 遙かに遠き
弓を敵に 渡さじものと
駒を浪間に 打ち入れ給いしが
泳ぎ泳がせ 敵船近く

流れ寄る弓 取らんとすれば
敵は見るより 船漕ぎ寄せて
鉄塔取りのべ 打ちかくるにぞ
已に危うく 見え給いしが

直に鉄塔を切り払いつつ
遂に弓をば 御手にとりて
元の渚に あがらせ給う
時に兼房 御前に出て

扨も拙き 御振舞や
たとえ縦令秘蔵の 御弓にして
千々の黄金を 延べたりとても
君の命が 千万金に

かえらりょうやと 涙を流し
申しあげ上れば 否とよ夫は
弓をお惜しむと 思うは愚か
若しや敵に 弓取られなば

未の世までも 義経こそは
不覚者ぞと 名を汚さんは
無念至極ぞ よし夫故に
討たれ死なんは 運命なりと

語り給えば 兼房始め
諸軍勢みな 鎧の袖を
絞るばかりに 感歎しけり”


相川音頭歌詞

相川音頭といっても相川に関係ない源平合戦を唄ったものです。
源義経が弓を海に落とし慌てて拾い上げるという内容です。
義経は腕力が弱く、敵の平家に拾われてそれがバレるのが嫌だったようです。

相川音頭の起源  

慶長より元和(今から三百五、六十年前)にかけて相川金山が最も隆盛を極めた当時、相川町の人口は十余万人を数え、佐渡之国として広く全国に知られし由。その頃の盆踊りは各自国元の歌踊を取入れた為まとまったものはなかった。
 江戸の文化が急激に入って来た寛文の末頃に至って今の相川音頭が始り、謡物としては心中口説恋物語等、主として軟体物ばかりであったといわれている。
 文政、天保に至り、尚武の気風が盛になるや士族の本拠たる相川町では古来の軟体物を厭い、源平軍談五段が綴られて(作者相川の士人山田良範といわれる)、大いに謡いはやされてきたのである。
 当時毎年七月十五日旧暦のお盆には奉行所前の広場に於て公式の行事として、この踊りを奉行の観覧に供した為一名御前踊ともいわれている。この御前踊りの時には必ず「謡曲内百番くずし」(作者佐渡奉行所広間役相川の歌人辻守遊といわれる)を謡うのが慣例であった由、この歌詞は謡曲の題名を詠み込んだもので非常な名作である。
 この様に相川音頭は相川の金山によって生れ、その優雅な踊りと名歌詞とは郷土民謡の粋である。

「佐渡ヶ島、相川の非公式ページ」様より
http://sado-aikawa.from.tv/index.shtml



「今度は民謡 2011/08/28(日) 09:41:54」 
http://aoiroenpitu.blog98.fc2.com/blog-entry-1042.html で書いた相川音頭は、はずれでもなかったように思います。

源義経公を謳った歌であると知り、驚きました。椅子から転げ落ちそうになりました。

何故、佐渡で源平合戦?という疑問はさて置き、今も唄い踊り次がれる相川音頭。

菅原道真公、崇徳天皇と印が現れ、訪れた京都の北野天満宮・白峯神宮・晴明神社。・・・では次はどなただろう?もしや安徳天皇ではないか?と思っていた矢先、見てしまった相川音頭。歌詞は義経公?曖昧な記憶で辿った民謡ではありましたが、まさか繋がるとは・・・
再度、椅子から転げ落ちてもよろしいですか?  バタン!!


保元の乱源氏の兵士の首は京都船岡山で斬られ、鎌倉幕府成立後、鎌倉幕府の執権北条高時の軍勢が京都の後醍醐天皇の朝廷へ攻め入った「正中の変」。
幕府方に拘禁され鎌倉に護送された日野資朝は、佐渡で斬首されました。

保元の乱
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%85%83%E3%81%AE%E4%B9%B1

正中の変
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E4%B8%AD%E3%81%AE%E5%A4%89



日野資朝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E8%B3%87%E6%9C%9D

後醍醐とともに宋学(朱子学)を学び、後醍醐の討幕計画では中枢に参画した。正中元年(1324年)鎌倉幕府の朝廷監視機関である六波羅探題倒幕計画が察知され、日野俊基らとともに捕縛されて鎌倉へ送られ、佐渡島へ流罪となる(正中の変)。元弘元年(1331年)に後醍醐老臣の吉田定房の密告でふたたび討幕計画が露見した元弘の乱が起こると、翌元弘2年/正慶元年(1332年)に資朝は佐渡で処刑される。”

元弘の乱
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%BC%98%E3%81%AE%E4%B9%B1

源氏と平氏と北条家。・・・・
源平合戦で平氏の滅亡により鎌倉幕府は樹立したようなもの?



首なんですよ、首。

首を斬られたのは敵と対峙した時の敗者であり、その遺恨は凄まじいものがあったろうと思います。

義経も自刃したとはいえ、首を斬られたはずです。

”義経の首は美酒に浸して黒漆塗りの櫃に収められ、新田高平を使者として43日間かけて鎌倉に送られた。文治5年(1189年)6月13日、首実検が和田義盛と梶原景時らによって、腰越の浦で行われた。”


はい、後醍醐天皇斬首も引っ掛かってきましたね。

私は咎めることも感慨深く想うこともなく落ち武者の首を斬りました・・・
私に刃向かうこともなく、いともあっさりと首を斬られた・・・

日蓮も佐渡へ流されたとありますが、日蓮関係はまだ夢見に出現しておりませんので、ここは流す(シャレかな?)とします。


義経阿波にも来ています。阿波から屋島に渡りました。
相川音頭で唄っている弓流しとは、屋島の合戦で起きた出来事でした。現在の香川県・讃岐の屋島ですね。
平氏についていた阿波水軍の裏切りもあり、平氏は屋島の合戦に次ぎ、壇ノ浦の戦いを経て没落したのです。・・・・


と言えば「平将門」ですが、後醍醐天皇と似ていますね。
南北朝の発端となった後醍醐天皇、彼は北朝・南朝として戦った。そして「天皇」vs「新皇」の戦いの平将門。彼も夢途中で敗れた。

そして常に勝者となったのが現皇室の血脈?


彼等が何か言ってるような気がするのは何故だろう?


菅原道真もこれに一枚噛んでいる気がするけれども、私の頭の中は破裂しそうですので、後にします。何しろややこしいので。

ま、要するに「戦い」なんですよね・・・



追記(2011/9/1 pm4:22)

何故阿波水軍は裏切ったのだろう?阿波は遙か昔から忌部の影響で朝廷には従順だったはずなのに。・・・京の都ともパイプが太く、阿波弁もどこか京風に近いモノがある。大阪の関西弁より京都依りだと思うのは気のせいかな?

それにしても、裏切ったはずの平家の落ち武者を、何故か囲って守ったりしていたというのは不思議な行動であると思う。相反するよね。

平家の隠れ武者が今に残しているのは祖谷ソバやらソバ米雑炊など。
貧しくも栄養もあり、いざというときに逃げやすいような工夫がみられるのは、落ち武者らしい発想。だから祖谷ソバは太くても切れやすく柔らかいのね。
ソバ米雑炊はただ水に入れてコトコト煮て味付けするだけで出来上がり。米より早く簡単に出来上がるのです。結構美味しいんですよね(たまに食べると)




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この記事に対するコメント

無題

>そして常に勝者となったのが現皇室の血脈?

世の中そんなに綺麗でないよ。今の皇室も一皮向いたら・・
ってことかな?

佐渡は親鸞さんや弘法大師の信仰が強い場所のような・・

日野氏というと、親鸞さんも確かその関係の人だったかな?

あと屋島は「四国霊場札所・屋島寺」
夫婦仲のよい大狸が居るそうです。

なにか、造反有理?

ではまた。

  • 投稿者: 忠武飛龍
  • 2011/09/01(木) 09:37:05
  • [編集]

Re: 無題


こんにちは、忠武飛龍さん^^
毎度御世話になり有難うございます。

何だかねえ、そのうち明治維新まで行くんじゃないかと予感が働くのですよ。
昭和天皇陛下も香淳皇后様とご一緒に現れておりますしね。
王政復古・・・ですよ。
今、鎌倉幕府手前ですかね?まさしく源氏と平家の中心的人物を見てます。

闇に入れられてしまった歴史上の人物達は、何か吐露したいんじゃないでしょうかね?私はネガティブを受ける側だと感じていましたが、天皇家にもネガな人々はたくさんいたのだと思います。夢を受けていて、ネガが感じられますから、やはり私はネガ担当なのだと感じます。
だから剣を持っている(与えられた)のかも知れませんね。
まず剣はほとんど使いませんけど。

たまにはポジな夢を見せて下さる時もあるんですね。
私はこれを「神様の下さる飴玉」と呼ばせて頂いてます(笑)

佐渡も空海様とのご縁が深いみたいですね。
親鸞様もそうなんですか?日野家の家系?

造反有理・・・

まさしくソレを訴えたいのかも知れません。
表は実は裏側で、裏側が実は表だったとか。うん、難しいですね(ふう~)

  • 投稿者: coomi
  • 2011/09/01(木) 15:12:13
  • [編集]

悲しみを抱く者。

松岡正剛さんが「ワークアウト」が日本の手法だと。

よくわかりませんが「切り捨てていく」ということ。

もうひとつは「負けたもの・脱落者は、無駄。と再検討しない。」

ということのようです。

欧州や中国では、しばしば再検討されます。中国は意外とその再検討が多いです・・。
忠臣・義士だったとか、さまざま理由で・・

日本は再検討・十分な試行錯誤やその過程の検証って、あまり無いように思います。
特に、近代以降は・・・・

その報いのひとつが、あの大敗戦と私は思います。

明治以降を全否定する気もないですが、その明治が否定した「古き因習」が、果たしてそう「無駄」だったのか?
根っこがないまま足掻いた近代人の労苦も感謝すべきでしょうが、果たしてその根っこを作った江戸以前の人たちへの感謝も重要ではないのか?

空海は、蝦夷の血も引くとか。
親鸞は、義朝一族の女性が母だったとか。

敗残してすて去られるはずの人たちから、実は新時代の思想・生き方が現れる。
そうそう、俳諧の開祖松永貞徳は、大仏を焼き・将軍を殺した松永久秀の末裔とか。

私たちが合理性・近代化で捨て去ったモノをもう一回、抱き上げて、見つめなおす。
そのように思います。

古きを温めて新しきを知る。とか。

ではまた。

  • 投稿者: 忠武飛龍
  • 2011/09/02(金) 20:44:26
  • [編集]

Re: 悲しみを抱く者。


私は今まで夢見でも実際の経験でも、ネガを見ることになっています。
出来ればポジを見たいと願いつつ、押し寄せてくる夢見はネガがほとんどでした。

類は類を呼ぶ。

表立って活躍できない者は、裏から働きかけるもの。
だから呼ぶのかも知れませんね。
ほら、青色ええんぴつの表書きに書いてあるでしょ?
「印刷されない線」

これも陰陽なのだと思います。
陽の人物(注目される人物・印刷される人)があれば、陰の人物(注目されない人物・印刷されない人)もいるわけです。
どちらが正しいとかは言えませんが、これも次第に解明されるのだと思います。
今は過渡期。

見つめ直すというのは賛成です。
ただ、囚われてはいけないと思うのです。陰であれ陽であれ。
信じ込むことも罪だと思います。

この世は巡り巡り、また巡り逢えるもの。
歴史でも個人の人生でも。

でも、忘れてはいけないものがあります。
この世をずっと紡ぎ続けてきたサイクル、そして「人」
今の現代人は忘れておられますね。

それを私に語りかけておられるのかも知れません。
彼等はきっと「良い人」だったのだと思います。

  • 投稿者: coomi
  • 2011/09/02(金) 21:58:38
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