菅原道真公(天神様)と弘法大師空海様 その2

  • 2011/08/06(土) 20:26:49

醍醐天皇。
Emperor_Daigo.jpg

元慶9年1月18日(885年2月6日)- 延長8年9月29日(930年10月23日)

~wikiより抜粋~

”元慶9年(885年)1月18日、源定省の長男・源維城として生まれる。仁和3年(887年)、父の皇籍復帰・即位宇多天皇)に伴い、皇族に列することになった。寛平元年(889年)12月28日に親王宣下、同2年(890年)12月17日に敦仁に改名。同5年(893年)4月2日に立太子。同9年(897年)7月3日に元服し、同日践祚、同月13日に即位。父帝の訓示を受けて藤原時平・菅原道真を左右大臣とし、政務を任せる。その治世は34年の長きにわたり、摂関を置かずに形式上は親政を行ったため、後世「延喜の治」と崇められた。”

”しかし昌泰4年(901年)、時平の讒言を聞き菅原道真を大宰権帥に貶めた昌泰の変は、聖代の瑕と評されることもあった。近年では、この事件は天皇と時平による宇多上皇の政治力排除のための行動であったと考えられている。また、同年に時平の妹である藤原穏子(後に中宮)が女御に立っており、宇多上皇が採ってきた藤原氏に対する抑制政策を転換していることも変と関係していると考えられている。”

”天皇ははじめ、中宮藤原穏子との間に儲けた長子保明親王を東宮の座に据えたが、早世。そのためその子慶頼王を皇太孫としたが、やはり夭折した。一連の不幸は菅原道真の怨霊の仕業と噂され、延喜23年(923年)になって、天皇は道真を左遷した詔を破棄し、右大臣に復し贈位を行い、その慰霊に努めた。”

”延長8年(930年)の清涼殿落雷事件以降体調を崩し、9月22日、病篤きによって皇太子寛明親王に譲位。その7日後の29日に崩御。宝算46。翌月10日、山城国宇治郡山科陵(醍醐寺の北、笠取山の西、小野寺の下)に土葬された。”


~抜粋終了~


大変なことしちゃったなというのがその後の醍醐天皇の本音。
以来、道真を慰霊することに務めたが、清涼殿落雷事件が発端となり病に冒され、没する。

道真にとっては自業自得よ ということか。
宇多天皇藤原氏抑制政策を裏返した醍醐天皇も、結局は「延喜の治」と呼ばれた親政も「寛平の治」を行った宇田天皇の二番煎じだった。

藤原氏の勢力の強さに感服してしまうが、宇多天皇を仕立てた頃は藤原氏にとって強い者はいなかったのが痛いところだった。すべては藤原氏の操る糸が元であり、傀儡として表立った天皇達は哀れでもある。



藤原時平。

貞観13年(871年) - 延喜9年4月4日(909年4月26日)

~wikiより抜粋~

”関白藤原基経の長男であり、若くして栄達するが、父の死の時点ではまだ年若く、宇多天皇は親政をはじめ、皇親である源氏や学者の菅原道真を起用した。醍醐天皇が即位すると道真とともに左右大臣に並ぶが、次第に対立し道真を遂に讒言して大宰府へ左遷させた。政権を掌握すると意欲的に改革に着手するが、39歳の若さで死去した。その早すぎる死は怨霊となった道真の祟りと噂された。”

~抜粋終了~

宇多天皇、菅原道真を裏へ葬った「昌泰の変」よりわずか8年後、没する。

不思議なのは、この時平讃岐守として讃岐国へ赴任している。

菅原道真(886年1月16日)赴任
藤原時平(889年1月16日)赴任


同日という不思議が、やはり因縁を感じずにはおられない。


讃岐国



弘法大師空海。
Kukai2.jpg

宝亀5年(774年) - 承和2年3月21日(835年4月22日)

この方も超有名なので省かせて頂きます。

~wikiより抜粋~

”ところでこの時期、一沙門より「虚空蔵求聞持法」を授かったことはよく知られるところである。『三教指帰』の序文には、空海が阿波の大瀧岳(現在の太竜寺山付近)や土佐の室戸岬などで求聞持法を修ましたことが記され、とくに室戸岬の御厨人窟(みくろど)で修行をしているとき、口に明星が飛び込んできたと記されている。このとき空海は悟りを開いたといわれ、当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあり、洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗ったと伝わっている。”

長安で空海が師事したのは、まず醴泉寺の印度僧般若三蔵。密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけたものと考えられている。空海はこの般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられている。

5月になると空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受ける。”

承和2年(835年)、1月8日より宮中で後七日御修法を修す。宮中での御修法はこれより明治になるまで続き、明治以後は東寺に場所を移して今も行われている。1月22日には、真言宗の年分度者3人を申請して許可されている。2月30日、金剛峯寺が定額寺となった。3月15日、高野山で弟子達に遺告を与え、3月21日に入滅した。享年62(満60歳没) ”


~抜粋終了~

空海こそ当時の天才であり、作詞・文学理論・思想・書などの多方面の才能をあますところなく発揮した人物だった。

太宰府で待ち続けた入京は、嵯峨天皇の許しを得てやっと京へ帰ることが出来た。

812年には高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇(神護寺
816年には修禅の道場として高野山開創のため下賜を賜り、翌年から着手した。




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ここで気づいたことがある。宇多天皇に関係する重要人物は和暦、西暦含め20~30日の間の日付で亡くなってる。宇多天皇を除く全員だ。

空海が開いた四国阿波・太龍寺21番札所で21、台風マーゴンが徳島に上陸したのが20日未明で20となる。
やはりマーゴンは唐(中国)よりの使者かも知れない。

空海は20年の約束を切り上げて、たった2年で唐より帰国。

宇田天皇が出家し、東寺で受戒した後仁和寺に入ったのが10月24日

昌泰の変が起こり、道真が突如醍醐天皇の宣命によって降格、太宰府行きを決定されたのが1月24日

宇多天皇が即位した頃の「阿衡事件」仁和3年(887年)11月21日


阿衡事件



ここで忘れてならないのが「清涼殿落雷事件」

これが元で醍醐天皇は死亡した藤原時平に、太宰府にいる菅原道真を監視するよう命じられていた大納言民部卿の藤原清貫が落雷によって即死
この時から道真「雷神」と言われるようになった。


キーワードその⑤ 清涼殿落雷事件


清涼殿落雷事件

延長8年6月26日(ユリウス暦930年7月24日

~wikiより抜粋~

”この年、平安京周辺は干害に見舞われており、6月26日に雨乞の実施の是非について醍醐天皇がいる清涼殿において太政官の会議が開かれることとなった。ところが、午後1時頃より愛宕山上空から黒雲が垂れ込めて平安京を覆いつくして雷雨が降り注ぎ、それから凡そ1時間半後に清涼殿の南西の第一柱に落雷が直撃した。 

~抜粋終了~



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